新しいもの、ということ
- 2012/05/03 23:00
ここ数年、なかなか「これは新しい!」と驚くことが少なくなった気がします。
新人賞の選考をしていても、よく「既存作品の影響から外に出ていない」的な言い方をすることがあるのですが、実際そうであることも多いんですが、こう多いと、問題はもしかしたら自分自身にもあるんじゃないか、とふと省みたりもしてしまいます。
新しさがない、と感じるのは、多少あがった自分自身の経験値のおかげで、そのジャンルの系譜や題材などの似たものを思い浮かべられるようになり、そうなると怖いのが「あ、これはあれの流れでしょ」というふうに、そのカテゴリの箱に放り込んで、それ以上を見ようとしなくなってしまうことです。
これこそ「経験の罠」というやつで、日々あまりに多くの情報に接していると、物事をできるだけ手軽に理解しようとするあまり、未知のものを既知の認識の寄せ集めで説明して、以上終わり、としてしまう(要するに自分の安心できる認識から外に出るのが面倒くさくなってしまう)。そうなると、自分が理解している範囲でしか物を見なくなってしまう。
それは特別なことじゃなく、人が未知のものに出会った時の習性で、それができるからこそ物事の見定めが素早くできる、大切な能力でもある。でもそれにばかり頼っていると、その作品が真に描こうとしている独自の部分・未知の部分に対して、目が曇ってしまうことがあるのが、恐ろしい。それは、自分の感性の衰えに直結していることでもあるからです。
自分の目が曇って見えない部分にこそ、その作品の本質があるかもしれず、なお恐いと感じる。
文化が爛熟してくると、そうそう既知のイメージを塗り替えるような、驚きのあるものは出てこない。だからと言って、皆がそこそこに満足して安心できるものばかりでは、いずれ物事の生命力は衰えていく。コップに満ちた水も表面張力を越える瞬間があるように、そのきっかけを孕むものは、密かにどこかで育ってきているはず。
自分が物事を理解できる限界を、認知閾(にんちいき)というそうです。それを越えたものに対しては、人は思いこみなどで対応しようとしてしまうのだとか。
自分がそうなっていないか、時々点検しないといけないなと思う。
カテゴリの箱に放りこんで、そこにあったきらりと輝く片鱗を、むざむざ見逃すような真似はしたくない。
気づくのが難しかったそれに気づいた時の喜びは、ひとしおだと思うし、見過ごさないように、自分自身の感性もちゃんと研ぎ澄ましておきたい。